私が養豚業から看護師の仕事探しでヒッピークラックを感じた訳

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養豚業から看護師になった

看護師になる前に、私は動物飼育業に就いていた。私が行っていた動物飼育業は養豚であり、無菌豚を繁殖させる仕事であった。

動物を飼育するということは毎日のように動物に触れ、とても充実した日々を送れると思っていた。

ところが、子豚たちの中には、正常に生まれてこなかったり、うまく育たない子豚もいる。

経営面から考えると、そのような子豚の間引きも必要となる。動物に触れながらの仕事であったが、人間の手でいのちを奪わなくてほならない場面もあった。

一番忘れられない患者との場面

看護師となって救命救急センターに入職してからは右も左もわからず、懸命に業務を行っていた。半年ほど経過し、私はICUで忘れられない患者と出会った。

手術前より受けもちとなったAさんは三十歳代の女性、くも膜下出血で入院していた。既婚者であり、3歳になる息子がいた。入院した当初、患者は冷静沈着で、自分の状況や安静の必要性等をよく理解していた。

この頃は、私の中では清楚な女性ということ以外は特に印象は残っていない。忘れられず印象に残っているのは、手術後の経過からである。

なぜか、このときに私は1回目のヒッピークラックを感じた。

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患者はクリッピング手術を実施され、ICUへ戻ってきた。血管攣縮に注意をしながらかかわり、ケアを行っていたのだが、術後三日目を過ぎた頃より失見当識状態が現れるようになっていた。

人格が変わったように表情が変化してきたのである。用件はないのにナースコールでスタッフを呼び出して笑うような行動を見せるようになっていた。

弟の代わりに看護師の私が

Aさんは医療スタッフの中でも、特に私に対してそのような行動が多く見られるようになった。そして、私のことを「しようちゃん」と呼ぶのである。

私の名前は「よしこ」である。なぜそのように呼ぶのかを聞いたところ、患者にはちょうど私の年齢と一緒である弟がいたようである。年齢だけでなく背丈や髪型等似ている要素が多かったため、私を弟と間違えていたようだった。

時に私を「いいのさん」と呼ぶこともあるが、会話をしていくうちに「しようちゃん」に変わっていた。

朝の勤務前に挨拶に行くと、「しようちゃん」宛の手紙を書いてくれていることもあった。また、食事についてくるバナナやデザートを私のために取っておいてくれている時もあった。

「しょうちゃんは転職したの?私がここにいるから、ここで働いてくれているんだよね?」という言葉も聞かれた。

あたたかい家族のかかわり

そのようなAさんの行動に、私ははじめ戸惑いを隠せなかった。

痙攣期を過ぎ、状態が安定してきた頃には、家族も頻繁に面会に来るようになった。夫や両親のみならず、幼い息子とも面会ができるようになった。

失見当識状態の患者にシヨックを受けないか?

その面会の最中にも家族に私を「しようちゃん」として紹介する患者の姿があった。私は、失見当識状態である患者の姿をみた家族がショックを受けるのではないかと心配もしたが、家族はそんな患者の行動を優しく受け入れていた。

家族は患者の発言を認めることはしなかったが、「あなたが言うようにとてもよく似ているね、近くにこんな人がいてくれてよかったね」と患者を励ましていたのである。

そのような家族のかかわりに、私は不思議な感じを抱きながらも、感慨深いものを感じた。

患者は順調に快方へ向かい、食事も自力で全量摂取できるまでになった頃、急遽、一般病棟へ転棟となった。転棟の時、私は勤務ではなく、挨拶もできなかったため、残念に感じていた。

回復期を迎えて立派な母親の姿に

その後しばらくしてから、転棟先の医師より一通の手紙を受け取った。Aさんからであった。宛名は「しようちゃんへ」であった。しかし内容は、「しようちゃんへ」ではなく「いいのさんへ」であった。

「ICUにいた時は、とても世話になり、迷惑もかけたけれど、「しようちゃん」がいたから、元気になれました。仕事は忙しいだろうけど、たまに部屋に遊びに来てください。今度、私の息子を紹介します。」

正確ではないが、このような内容であった。

その後、私は勤務終了後に一度だけ面会へ行ってみた。突然の訪問に患者は驚いていたが、見違えるように元気になっていた患者に、私も驚いた。

その数日後、私が夜勤のため更衣をして救命救急センターへ向かう途中に、患者と夫、患者の息子が一緒にいるところを通りかかった。思わず足を止め、話しかけた。

偶然にも、これから退院するところであった。あまり長い時間会話はできなかったが、普通に子どもと話し、手をつないでいる患者の姿は、ICUにいた時には想像もできない立派な母親の姿であった。

まるで私はヒッピークラックを感じたような衝撃を受けた。

なぜ、その人を忘れずにいたのか

入職して間もない時期、急性期の患者は意識レべルも低い方が多く、入院期間も短いため、長期間かかわることが少ないという固定観念が自分の中にあった。

日々の業務をこなすことで精一杯であった自分が、初めて深くかかわることができたと実感した患者であった。それは、患者の状態の変化、家族とのかかわり、患者の生活背景を知ることができ、何よりも人としてのかかわりができたためだと思われる。

看護のどのような関心領域を示しているのか

急性期の患者は疾患が身体に与える影響が大きく、患者本人はもとより、家族も精神的衝撃を受けることが多い。疾患や外傷が予期せぬ突然のことで、重症度が高い時ほど精神的衝撃も大きく危機的状況となる。

この事例では、私は家族とは多くかかわらなかったが、患者がもつ社会背景、家族関係を深く考える機会となったのは事実である。家族とのかかわりを大切に援助することは看護には不可欠である。

そこには個別な生活の営みがありマニュアル的なものは存在しないと考える。看護師として人とかかわっていくうえでは、当たり前の人としての感性を忘れてはいけないと思う。

一人の人が回復していく過程には、家族がいて、そして看護者がいる、と言えるようになりたいと思っている。

今後どのように深めていきたいか

この事例から数年が経過している。

そして、さらに多くの患者とかかわるようになった。この頃に比べ、患者やその家族との接し方が変化してきたと感じている。初めて接する患者、家族に対しても、積極的にかかわれるようになってきているのである。

それは、私たちが日々看護していく中で、患者はもちろんのこと、家族や友人等からの情報は、とても重要であるからである。このことに気付き、意識的にかかわることができるようになった。

まとめ 私が看護に対して大切にしなければならないこと

これまで述べてきた経験をして、私は看護師としてのあり方、自分が大切にしていきたいことを自覚できるようになった。

それは、自分が人としての感性をもち、人として人とかかわるということである。自分が自分の家族、親戚、友人と接する時、相手のことを考え、相手の気持ちや感情を受け止めるように、患者と接する時も、同じように行うのである。

私は、この先も急性期領域で看護をつづけていくつもりである。

現在、五年目を迎え、多くの患者や、その家族と接する機会があった。中には亡くなられた方もいるし、回復し退院される方もいる。

意識レべルが低く、たとえ話ができずとも、常に一人の人間と向き合っているということ、当たり前ともいえるこのことを大切にしていきたい。

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